Sunday, June 19, 2016

道元 自己・時間・世界はどのように成立するのか

自己を知る みづからをしらん事をもとむるは、いけるもののさだまれる心なり。 (自分を知ろうとするのは、生きとし、生けるものの免れられない心のはたらきである。) 仏教の基本的モティーフは、「苦からの脱却」。仏教の考え方によれば、現実の世界は苦に満ちたものであり、その苦の根本的な原因は、無知であるという。自己や世界を正しく認識しないことから、物事に対する誤った執着や煩悩が生まれ、そこからさらに迷い、苦しみが生まれる。「みづからをしらん事もとめ」ても、自己に対して誤った見方におちいってしまえば、迷いや苦しみが生まれるだけ。だからそれらを脱却するためには、自己の、そして世界の真実のありようを正しく認識すること、いいかえれば、真理を体得することが不可欠となる。 「山水経」に巻において、道元は、「青山常運歩(山は常に歩いている)」と世界のありようを語っている。常識では不動であるはずの山が動くというのである。 「この言葉について、よく考えよ」(参究すべし)と繰り返し、また「人は、世界が今このようなものとしてあることについて疑っていないけれど、疑っていないからといって、正しく知っているわけではない」(疑著せざれどもしれるにあらず)という。道元は、「疑著」(疑い)こそが、正しい知へ到達する出発点であると考えているのである。 真理を指し示す「青山常運歩」という言葉には、先入観を破るという役割と、新たな認識をもたらすという役割があるということになる。 本来的なもの、本質的なものを固定的に立てないという思考方法は、仏教的には「無自性ー空」ということで表される。 「無自性」とは、文字通り「自性」がないということである。 仏道修行とは、自己の真相を見極めることである。そして、自己の真相を見極めるとは、「自己を忘れる」ということだとされる。 仏教では「無自性」を主張し、あらゆるものに固定的な本質などないことを出発点としている。人は、日常生活において、漠然と「自己」という何か固定的なものがあるかのように考え、その固定的な自己を単位として生活を営んでいる。しかし、仏教的な考え方からすれば、それはあくまでも日常生活をおくるために仮構されたものであって、実はそのような固定的な自我もないし、さらに存在するものはすべて固定的な本質などないのである。 「青山常運歩」とうこの言葉は、自己と、「山」に象徴されるよなこの世界の諸存在とが、ともに同時に歩く(=修行する)という次元を切り拓く。世界のありとあらゆる存在と自己とは、同時に修行し、さとるというのである。このような同時の修行と「さとり」とは、まさに「空そのもの」から現成させた、「空ー縁起」なる世界において成り立つ。「空そのもの」から、自己が存在を「時として意味付け、自己と関係付けて、「空ー縁起」なる全体世界を現成させる。まさに、これこそが、自己と時間と世界との成立なのである。